わたしが歯科医師であるということ
父方の実家が小美玉市にほど近い現鉾田市にあり、子供のころは夏休みになると、近くの大竹海岸で真っ黒になって過ごしていました。祖父や祖母との思い出の詰まったこの地に骨をうずめることになったのも、何かのご縁かもしれません。
幼少時代の私は、現在の体格からは想像がつかないかもしれませんが、青白く痩せていて、そして異常に足の速い野球少年でした。
クラスでは体育以外は特別飛びぬけた成績でもなく、ちょっと繊細で、今風の表現で言うと「草食系」の、ガツガツしない平凡な存在でした。
叔父はさいたま県の親子3代に渡って歴史ある歯科医院ですが、父親はとても厳しく、私は唯一の特技であると自負していた運動能力を生かし野球やサッカーをやりたかったのですが、「歯科!東大!」「東大!or 歯科!」の口ぐせを、「dead or alive」かのごとく振りかざし、その教育信条の下、反発しながら忙しい青年期を送りました。
私の記憶の中で、父とキャッチボールをしたり、海で遊んだりした記憶はほとんどありません。
父はたまに私を仕事場へ連れて行き、そばにある小さな椅子に座らせ、無言の時間を過ごすことがありました。仕事場の空間では子供ながらに、張りつめた、緊張した雰囲気を感じましたが、それが父と一番長くいられる大切な時間でした。
そんな父がある日血尿を出して倒れたことがありました。医者に「即入院」と言われた30分後私が目にしたのは、「時間が無いから」、
と回転ずしで(ほとんど立った状態で)2皿食べ終えた後仕事場へと向かう父の姿でした。当時はバブル前の高度経済成長期で、そのような光景も珍しくなかったかもしれません。心配と不安で言葉を失っていた私は父に何も言えずただ立ち尽くしていました。
そんな仕事に厳しくて、いつも忙しそうにしている父親を見て「こんなのおかしい、俺は日曜日にこどもと一緒に汗を流す父親になる!」と思っていましたし、父親にはよく反発しました。
父ともっと一緒に過ごしたり、悩みを相談したり、遊んだりしたい、と思っていましたが、その思いはいつも一方通行に終わりました。
その当時の自分はまだいろいろなことを理解することができず、ただ寂しさを抱いていました。
しかし、今では父親が自分に厳しくしてくれた意味、業を全うするためにあきらめずに努力することの大切さを教えてくれたことにとても感謝していますし、尊敬しています。
そんな自分も歯科医師になって間もなく工場からの排ガスでグレーに曇る東京北区のはずれ、駅前のある大きな医療法人の分院の院長を任されることになりました。
当初はまだ十分な設備も人もなく、診療から受付、清掃、院内の大工工事までフル稼働でこなすマルチ先生でした。治療の十分な時間を確保し、患者さんと接する時間を少しでも増やすためローラーを取りつけた特大のゴミ箱を配置したほどです。
そして、学生時代のアルバイトでお世話になったO先生のような、技術も人間性も優れた丁寧で素晴らしい治療ができる歯科医師になるため診療に全力投球し、「戦争で歯を失ってしまった患者さん、事故の後遺症を抱えながら強く生きる患者さん、不規則な生活からくるストレスで不衛生になり歯周病が悪化した患者さん・・・」、
さまざまなお口や健康の悩みを抱える患者さんと、明けても暮れても真剣に対峙する日々を送りました。
診療後は同期のメンバーと治療計画や未来の歯科医療について討論を交わし、その時の患者さんメモ(患者さん別に、食生活、これまでの疾病の状況、職業、生活、生活環境、最適な治療方法・期間など・・・収集しうる限りすべての膨大なデータから作成した手書きの治療計画ノート)は今でも初心を忘れないようにという自戒も込め、大切に保管しています。
診療には打ち込めましたが、季節の認識は不明瞭で、1年中Tシャツと白衣とサンダル姿で全く色気はなく、真冬にTシャツ1枚で現れた私に同期のドクターが怪しい視線を投げかけていましたが、全く気にしませんでした。ある時地元の友人とクラス会で会った時、「歯医者で時給500円?」と言われ、一瞬何のことかわかりませんでしたが、そういえば年に3回しか休みがなかったことをその時まじまじと実感したものでした。
時折子供時代が頭をかすめ、このままでは自分も子供に私が経験したと同じ寂しさを味わわせてしまうのではないか、という思いに駆られました。しかし、父のことを思い出し「自分は本当に与えられた目の前の仕事に限界まで努力しているのだろうか?」と自問しました。
私のクリニックは、インプラントを初めとする口腔外科治療全般を、その卓越した専門的技術・見識と幅広い経験で口腔外科界でも全国的に(欧米でも)有名な古賀剛人先生(主著「インプラント外科学」他多数)に師事しています。氏は同時に芸術家でもあり、大変博識で優れた人間性を兼ね備えた日本でも有数の「インプラント科医」です。
(あえて歯科医ではなくインプラント科医としています。外科医とした方が近いかもしれません。)
僭越ながら心の中で勝手に「師」と仰ぎ尊敬してやまない先生の一人です。
答えはまだ見つかりませんが、これまでの人生の中で、良い治療を目指していくと、素晴らしい先生との出会いが必ずありました。
今の私があるのは、これまでに出会った偉大な先生・師のおかげだと思っています。
100人患者さんがいたら100通りの治療法があるはず。ぺリオ(歯周病)や口腔外科治療・・まだまだ勉強しなければならないこと、読まなければならない文献・学術書は山ほどある、とにかく、これ以上は無理、やるだけやったというところまで頑張って、それで伝わるならいい、その背中を見てこどもも自分も一緒に成長していけばいい・・・。そう覚悟を決めてから色々なことが変わってきました。
そして現在に至り、かつては絶対的な存在だった父も60代後半になり、静かな、穏やかな、温かい表情で私の子供とキャッチボールをしています。
その光景を見ながら、自分が診療に全力で取り組める日はけして永遠には続かない、それでも、いつも心に「この子が大きくなった時-10年後20年後を見据えたよりよい歯科医療の発展に繋がる活動を続けること、そしてまだその途上にいることをけして忘れてはならない」と思っています。
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